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沖縄県内で多くの不発弾が残る原因となった
沖縄戦の状況を記述しました。
戦局も押し迫った昭和19年3月、本土決戦の防備ラインとして南西諸島を守備すべく第三十二軍(牛島満司令官)が編成された。沖縄移駐後、軍は航空基地の設定と全島要塞化を目指して県民男女を徴用し突貫工事を慣行する。しかし目前にした米軍の南西諸島全域に対する大空襲(10.10空襲)により守備軍の施設、戦力は甚大な被害を受け、また、那覇市がほぼ全焼するなど県民生活も大きな打撃を被った。しかも第三十二軍の主力部隊がやがてフィリピン作戦に抽出されたため、軍首脳は現地徴兵、防衛召集などを通じて県民の中から即席の兵力を補充すると共に、作戦も戦略持久作戦に変更せざるをえなくなった。沖縄戦開戦時の守備軍は約10万人といわれるが、その約3分の1は先の補充兵力にすぎず、兵器、弾薬とも劣弱であった。これに対して米軍は陸上攻略部隊17万3千人、後方支援部隊を合わせると実に44万にも及び、兵器、弾薬の面でも圧倒的に優勢であった。戦場化必死の情勢下で(九州・台湾)へ約10万人が疎開したが、海上の危険と船舶の不足で初期の目標を達成できず、大半の県民はやがて戦場となる県内にとどまった。疎開者の中には、約800名の児童を乗せた船が米潜水艦によって撃沈された対馬(つしま)丸遭難事故昭和19年8月22日のような悲劇に遭遇した人も多い。
執筆者:高良 倉吉 元沖縄県副知事
写真:10/10空襲
空襲でメチャクチャに破壊された天妃小学校一帯
日米極秘資料が明かす 10.10 - 大空襲の全貌 那覇崩壊す
著 太田 昌秀 元沖縄県知事 - 久米書房
硫黄(いおう)島陥落後、米軍は直ちに沖縄攻略作戦(アイスバーグ作戦)に着手し昭和20年3月23日から沖縄諸島に激しい空襲、艦砲射撃を加えた。26日慶良間(けらま)列島に上陸して同島を確保した米軍は4月1日、いよいよ沖縄中部西海岸に上陸作戦を開始した。日本軍は主力を首里(しゅり)を中心とする浦添(うらそえ)高地一帯に配置していたため、米軍は抵抗らしい抵抗も受けず上陸を完了し沖縄本島を南北に分断、北部および各離島制圧のための作戦を展開する一方、主力は南進して7日ごろから日本軍主力に総攻撃を開始した。首里の北方浦添高地で展開された両軍の死闘は40日余りに及び、両軍とも大きな被害を被った。特に日本軍は主力部隊をこの先頭で失ったため、5月22日、拠点であった首里を放棄し残存兵力約4万(一説では3万)をもって南部島尻(しまじり)に撤退し、ゲリラ戦的抵抗を含む交戦を続行することとした。狭い南部には戦火に追われた一般住民(推定10万人以上)も避難したため、軍民混在のパニック状態に陥り、そこに米軍の激しい攻撃が加えられたため過酷な状況が展開した。日本軍による壕(ごう)追い出し、住人虐殺、食料強奪が発生し、住民は、米軍はおろか日本軍の暴虐行為にまで恐れおののく事態となった。南部にかろうじて設定された八重瀬岳(やえせだけ)一帯の日本軍防衛戦も6月18日ごろには米軍に突破されたため、牛島司令官は「最後まで敢闘し、悠久の大儀に生くべし」と最後の命令を発し、23日未明、摩文仁(まぶに)の軍指令壕において自決した。ここに日本軍による組織的抵抗は最終的に終了したが、米軍は引き続き掃討戦を展開、6月末までに約9千人の日本兵が犠牲となり、8万人ほどの一般婦女子が収容されたという。「ひめゆり部隊」をはじめとする学徒隊や、現地招集の防衛隊の多くも南端の洞窟(どうくつ)や海岸で悲惨な最期を遂げた。米軍が沖縄攻略作戦の終了を宣言したのは7月2日のことである。
執筆者:高良 倉吉 元沖縄県副知事
慶良間列島の渡嘉敷島を砲撃する米戦艦「アイダホ」
上陸後の米第6海兵師団の兵士たち(4月1日)
写真記録 - これが沖縄戦だ 太田昌秀編著 元沖縄県知事
発行 - 琉球新報社 発売 -那覇出版
3ヶ月あまりの戦闘で日本軍将兵(県出身者を除く)6万5908人、米軍将兵1万2281人、県出身軍人・軍属2万8228人の戦死者がでた。また、一般県民9万4000人(推定)が犠牲となった。(以上、県援護課資料による)。県民のなかには集団自決や日本軍による虐殺の例、軍命により強制移住させられマラリアにかかり死亡した例、あるいは一家全滅した例など様々な戦死例があり、実数は今日に至るまで判明していない。戦闘員よりも一般住民の戦死者が多いという事実に沖縄戦の特徴がよく表れている。それは、本土侵攻をスムーズに運ぶため物量を投入して一気に沖縄を制圧しようとする米軍と、本土侵攻を1日でも長引かせるため出血作戦を前提に総力戦を展開する日本軍とが、沖縄県民をも巻き込む形で戦闘を行ったからである。沖縄の各地には今なお未収集の戦死者の遺骨が数多く存在するといわれている。また、人名ばかりでなく、21件も存在した国宝文化財をはじめとする多くの文化遺産がことごとく灰燼(かいじん)に帰した。戦争で肉親を失った者、傷ついた者など現在の沖縄県民の全てがなんらかの形で被害者遺族だと言われている。研究者の間では、沖縄戦は近代沖縄の「結論」であると同時に戦後沖縄の「原点」「起点」と規定される。
毎年6月23日は「慰霊の日」として沖縄県では公休日であり、県主催の合同追悼式をはじめ各種集会が開催されている。50回目にあたる1995年(平成7年)の「慰霊の日」には、糸満(いとまん)市の平和記念公園内に建設された「平和の礎(いしじ)」の除幕式が行われた。「平和の礎」は沖縄戦で戦死した全犠牲者の氏名が刻まれた記念碑。激戦地となった南部の摩文仁一帯は沖縄戦跡国定公園に指定され、各種の慰霊塔が建立されており、また、沖縄戦当時そのままの様子を伝える洞窟などがいまなおも各所に存在している。
執筆者:高良 倉吉 元沖縄県副知事
写真:捕虜収容所
沖縄戦記録写真 日本最後の戦い
発行者:佐久田 繁
発行所:月刊 沖縄社
発売元:新日本教育図書(株)
沖縄県では、確認出来ただけで、復帰前までに700名あまりの方が
不発弾による爆発事故で亡くなり、復帰後も6名の方が亡くなっています。
この事故後、県民の生命、財産を守るとともに、公共工事の安全かつ円滑な推進を図る目的として、沖縄不発弾等対策協議会が設置された。
(磁気探査研修テキスト、沖縄不発弾等対策協議会資料より)
(磁気探査研修テキスト 沖縄不発弾等対策協議会資料より)
復帰後の不発弾事故年表
年月 | 事故の内容 |
---|---|
昭和49年3月 | 那覇市小禄の私立幼稚園横の下水道工事現場で不発弾が爆発。4人死亡、34人重軽傷。家屋損壊80戸、車両被害41台。 |
昭和50年5月 | 知念村(現南城市)知念で護岸の上で白煙が噴出し、突然爆発した。小学生2人が顔面にやけどを負った。 |
昭和50年9月 | 伊良部町(現宮古島市)佐良浜で不発弾切断中に爆発。死者1名。 |
昭和51年7月 | 浦添市内間で不発弾に小中学生が石を投げつけ爆発し、4人が重軽傷。 |
昭和53年4月 | 豊見城村(当時)我那覇で雑木を焼却中に不発弾が爆発し、1人がけが。 |
昭和53年7月 | 南風原町新川で原野火災が発生して不発弾が爆発し、消防隊員2人がけが。 |
昭和59年11月 | 嘉手納町水釜で不発弾を可燃処理物のドラム缶に投げ入れて爆発し、小学生が足に裂傷。 |
昭和62年1月 | 那覇市長田で旧日本軍砲弾を解体作業中に爆発し、1人が死亡。 |
昭和64年4月 | 伊江村東江上で草刈機が不発弾に触れて爆発した。 |
平成3年12月 | 糸満市大里で廃材焼却中に爆発し、1人がけが。 |
平成7年11月 | 宮古島の住宅地で50㎏爆弾が爆発し、民家の門柱などを壊した。 |
平成9年11月 | 嘉手納町水釜の民家庭先で草刈り中に不発弾が爆発し、1人が負傷。 |
平成13年6月 | 具志頭村(現八重瀬町)安里の土地改良工事現場で作業員が削岩作業中に、地中で爆発して白煙を上げている不発弾を発見した。けが人はなし。 |
平成13年6月 | 西原町マリンタウンプロジェクト埋め立て地で整地作業中のブルドーザーが黄りん弾不発弾を踏んで爆発し、運転していた男性が頭部に軽傷を負う。同月だけで同じ現場で4件の発火、爆発事故が発生した |
平成21年1月 | 糸満市小波蔵で水道工事中、重機で掘削作業中に不発弾(250kg爆弾)接触し爆発、作業員他2名が重軽傷。 |
令和4年12月 | 嘉手納町で工事中に不発弾(黄リン弾)が破裂し、作業をしていた女性一人が呼吸困難などの体調不良を訴えて病院に搬送された。 |
沖縄県の不発弾処理実績
回収件数(件) | 回収重量(t) | |
---|---|---|
29年度 | 554 | 18.4 |
30年度 | 675 | 19.6 |
令和元年度 | 529 | 18.4 |
令和2年度 | 510 | 12.8 |
令和3年度 | 423 | 11.5 |
歴度累計 | 38,949 | 1848.3 |
陸上自衛隊の資料によると、昭和47年度からこれまでの間、
約1,850t、2000回の出動等、無事故で不発弾処理を実施
※磁気探査研修テキスト(R4年度)
沖縄不発弾等対策協議会資料より
下の写真の不発弾は当社が、2010年2月沖縄県
八重瀬町内で発見した不発弾です。
驚く事に、戦後60年以上経過しても、
全く錆びていません。
まさに、当時の状況のままの不発弾で破壊力は全く衰えていません。
全体
弾帯
弾底部分
弾頭部分
記号部分(文字がはっきりと確認出来ます)